庚申塚

佐賀県鳥栖市に「庚申堂塚古墳(こうしんどうづかこふん」があります。古墳の上に庚申尊天(こうしんそんてん)と刻まれた石碑がたっていることから名づけられたようです。

 

大阪天王寺にある「四天王寺庚申堂」は有名です。四天王寺庚申堂の御朱印をいただいたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

庚申(かのえさる)は言うまでもなく干支です。庚申(こうしん)信仰は現代でも「庚申様」「庚申さん」といって残っている地域があると思います。

 

庚申待(こうしんまち)という行事は長い歴史をもっています。庚申の日に青面金剛(しょうめんこんごう)や猿田彦を祀って徹夜をする行事です。

 

日本では平安時代の頃に陰陽師によって広まりました。宮中では「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」といい、和歌を詠んだり管弦を催し夜を明かしました。

 

もともとは道教の流れだと思いますが、庚申の夜には人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、その体内を抜け出して天帝にその人の罪過を告げると信じられ、それを防ぐために不眠の行を行っていたのです。

 

韓流ドラマの歴史物を見ていると王様が人事を発令したり何か重大なことを宣布するときに巻物に書いた文を読み上げる場面がよくあります。その最後に「丁酉(ていゆう)の年、丙辰(へいしん)の月、甲午(こうご)の日」と宣布した日付の干支を必ずいいます。

 

韓国でも歴史的事件の名称に干支が使われていますのでいくつかあげてみます。

1443 癸亥約条(きがいやくじょう)

1453 癸酉靖難(きゆうせいなん)

1498 戊午士禍(ぼごしか)

1627 丁卯胡乱(ていぼうこらん)

1636 丙子胡乱(へいしこらん)

1866 丙寅洋擾(へいいんようじょう)

1884 甲申政変(こうしんせいへん)

 

干支の干の十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)の文字は漢字の起源でもある三千数百年前の殷の時代に登場します。

 

古代中国では甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10個の太陽があり、甲乙~それぞれの日に順番に扶桑の木の上にのぼり空をめぐる、という太陽神話があります。

 

中国最古の辞書・爾雅(じが)には「月の甲に在るを畢(ひつ)と曰ひ、乙に在るを橘(きつ)と曰ひ、丙に在るを修と曰ひ~中略~癸に在るを極と曰ふ」と月と十干に関する記述もあります。

 

いずれにしろ十干は大昔に誕生し三千数百年もの間生き残ってきた言葉であり概念なのです。

 

※爾雅 紀元前2世紀頃に成立した中国最古の辞書

甲子革令

「甲子革令(かっしかくれい)」という言葉があります。革令とは制度が改まるという意味です。

 

甲子(きのえね)という干支には制度を改める力、流れを変える力があると考えられていたのです。甲子の年に元号を改めるのは災いを忌避するためでもありました。

 

十数年前に我が国の首相が鬼気迫る演説をして衆議院を解散したことがありました。首相としては自分の信念を貫きたかったからでしょう。私が注目したのは、その日の干支が甲子だったことです。(日にも干支があります)

 

他のことでもこの首相が何か思い切った決断をする日の干支に“なるほど”と思うことがあったので注目したのです。甲子の日を選択したのは偶然ではないでしょう。甲子の歴史的および運勢的意味を知ったうえで決めたのだと思います。偶然だとしたら強運すぎます。


「甲子革令(かっしかくれい)」とともに知られている言葉に「辛酉革命(しんゆうかくめい)」があります。辛酉(かのととり)の年は天命が改まるという意味です。

 

古代王朝は甲子と辛酉という干支を意識して革令・革命を行ってきました。

 

桓武天皇天応元年(781)の辛酉に即位し、延暦三年(784)の甲子に長岡京遷都をしています。故(ゆえ)あって長岡遷都からわずか10年で平安遷都をします。遷都の干支は甲子でも辛酉でもありませんが平安遷都の10月22日は辛酉の日です。

 

桓武天皇は遷都の三日後に新しい都の造営に関わった官人を招いて祝宴を催しましたがその日の干支は甲子なのです。初代神武天皇の即位も辛酉の年と日本書紀に記されています。


辛酉の改元・即位

神武元年 神武天皇 橿原宮で即位
天応元年(781) 桓武天皇即位
応和元年(961) 元号を改める
治安元年(1021)元号を改める
永保元年(1081)元号を改める
永治元年(1141)近衛天皇即位
建仁元年(1201)元号を改める
弘長元年(1261)元号を改める
元享元年(1321)元号を改める
永徳元年(1381)元号を改める
嘉吉元年(1441)元号を改める
文亀元年(1501)元号を改める
文久元年(1861)元号を改める

甲子・辛酉の干支を意識した改元・即位は古代から江戸末期の文久元年(1861)まで継続していたことになります。

干支(えと) 甲子(きのえ・ね)

尋常小学校の通知簿の評価は「甲乙丙丁(こうおつへいてい)」だったと母から聞いたことがあります。

 

しかし現代では契約書でみる「甲乙」、あるいは「甲乙つけがたい」という表現以外で日常の生活では「干支(えと)」の「干(え)」、十干を意識したり、用いたりする機会はほんとんどないかと思います。

 

昨日、書きましたように「干支」を聞かれても、辰、午、申、酉、など干支の「支(と)」の十二支のみを答えるのが一般的ではないでしょうか。「干支」を聞かれて甲辰(きのえたつ)丁午(ひのとうま)辛申(かのとさる)壬酉(みずのえとり)などのように「干支(えと)」の両方を答える方は少ないと思います。

 

ただ「戊辰(ぼしん)戦争」「壬申(じんしん)の乱」「辛亥(しんがい)革命」のように出来事がおきた年の「干支」がそのまま名称になっているものを歴史で勉強することで干支を知ることがあります。

 

身近なところでいえば福沢諭吉が明治10年の丁丑(ひのとうし)の年に著した「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。また「甲子園球場」は干支がそのまま球場の名称になっていることで有名です。甲子園球場が完成したのは大正13年(1924年)です。大正13年の干支は「甲子」なのです。

 

干支を球場の名前にしたのは大正13年が「甲子」だったからだと思います。他の干支だったら球場名にはしなかったのではないでしょうか。

 

甲(こう・きのえ)は十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)のはじめ、
子(ね・し)は十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)のはじめ、

 

甲と子が十干十二支のそれぞれはじめの組み合わせだから縁起がいいとして甲子園球場にしたのではないかと勝手に推察しています。


推察するには理由があります。日本の歴史において「甲子」の年は特別だからです。顕著なのは新たな出発を意味する元号を改めることが多くなされた干支が甲子なのです。

 

甲子の年の改元
万寿元年(1024) 元号を改める
応徳元年(1084) 元号を改める
天養元年(1144) 元号を改める
天久元年(1204) 元号を改める
文永元年(1264) 元号を改める
正中元年(1324) 元号を改める
元中元年(1384) 元号を改める
文安元年(1444) 元号を改める
永正元年(1504) 元号を改める

万寿から永正までおよそ500年の間、甲子のたびに元号を改めたのです。この時代、天皇の即位以外に心機一転といいますか災いを改めるためなどの理由で改元をしていました。

 

改元ではありませんが推古12年(604)の甲子の年は聖徳太子が十七条の憲法を作りました。また暦をはじめて用いた年でもあります。斉明3年(664)の甲子には冠位二十六階を定めました。

 

神亀元年(724)の甲子は聖武天皇の即位、延暦3年(784)の甲子は長岡京に遷都しました。これは偶然ではありません。甲子の干支を意識してなされたことなのです。

恵方 歳徳神の在泊する方位

歳徳神の在泊する方位、恵方は年ごとに変化します。

 

恵方がどの方位になるかは西暦でわかります。2018年であれば「南南東」です。西暦の下一桁が「8」の年の恵方は「南南東」になるのです。ですから1998年、2008年、2028年も南南東が恵方です。


2019年は下一桁が「9」です。下一桁が「9」の年の恵方は「東北東」になります。東京オリンピックの年、2020年は下一桁が「0」です。下一桁が「0」の年の恵方は西南西です。

西暦の下一桁
「1」の年の恵方は 南南東
「2」の年の恵方は 北北西
「3」の年の恵方は 南南東
「4」の年の恵方は 東北東
「5」の年の恵方は 西南西
「6」の年の恵方は 南南東
「7」の年の恵方は 北北西
「8」の年の恵方は 南南東
「9」の年の恵方は 東北東
「0」の年の恵方は 西南西
恵方の方位を東北東・南南東と書きましたが、実際には東北東微東(東北東やや東)、南南東微南(南南東やや南)になります。しかし私自身、恵方参りをするときは今年でしたら「〇〇神社はおよそ南南東」くらいの感覚で行っています。



西暦の下一桁の数字で恵方がわかるのですが、歳徳神が在泊する恵方の方位を西暦で決めたのではないことは言うまでもありません。

 

恵方はどのような理屈で決めているのか。それは十干(じっかん)です。その年の十干がなんであるかによって恵方はきまるのです。

 

十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸のことです。最初の甲乙は契約書等にでてくる言葉ですので馴染みがあると思います。また両者の間に差がなく、優劣がつけがたいことを「甲乙つけがたい」と表現されることでも御存知の方が多いでしょう。

 

読みは甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)です。

甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)とも読みます。



甲 こう・きのえ
乙 おつ・きのと
丙 へい・ひのえ
丁 てい・ひのと
戊 ぼ ・つちのえ
己 き ・つちのと
庚 こう・かのえ
辛 しん・かのと
壬 じん・みずのえ
癸 き ・みずのと

十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)は全部言えても十干をスラスラといえる方はそれほど多くないと思います。

 

甲乙以外は日常にあまり縁がない言葉だからです。ただ「今年の干支(えと)は?」は会話にでることもあるのではないでしょうか。

 

もし今年の干支を聞かれて「子(ね)」と答えると、テストでしたら50点になります。半分しか答えていないからです。「子(ね)」は「干支(えと)」のうちの「支(と)」にあたります。

 

では残り半分の「干(え)」は何か、今年2020年の「干(え)」は「庚(かのえ)」です。

 

ですから令和2年・2020年の干支を聞かれたら「庚子(かのえ・ね)」と答えたら100点です。「庚子(かのえ・ね)」は音読みで「庚子(こうし)」とも言います。

恵方 歳徳神

恵方は「吉方(えほう)」「兄方(えほう)」「明きの方(あきのかた)」ともいい、「歳徳神(としとくじん)」が在泊する方位です。

 

歳徳神はその年の福徳をつかさどる神様で、歳徳神のいる(在泊する)方位を「明きの方」「恵方」といい万事に吉とするめでたい方角と考えられてきました。



江戸時代に谷川士清(ことすが)が著した辞書・和訓栞(わくんのしおり)に

「としとく、その年の兄方(えほう)を歳徳(としとく)の方といひ、その方に棚をつりて、年神を祭る」

とあります。
歳徳神を祭る棚のことを歳徳棚(恵方棚)といいます。その年の恵方に向かって吊る風習がありました。

「総合日本民俗語彙」には

「エホウ棚 恵方棚 吉方棚 吉方(えほう)すなわち明きの方から、正月の神がおいでになるという信仰から、年棚をその方角に吊る習わしがある」


「年中行事大成」には

「その歳の吉兆の方を兄方(えほう)と称し、家毎にその方に向かひ高く棚をつり、葦索(あしなほ)を飾り供物燈火を献じこれを祭る、凡新年出収物飯物の類は、先づこれを献ず、神仏参詣万事の経営此の方より始む」

とあります。


柳田邦男著「年中行事調査標目」には

丹波の東南部では正月四日、初めて山に入って山神の祭を営み、それから柴一荷を刈って来る。此柴は保存して置いて、特に田植の初の日の飯をたき、それを以て歳徳神に供えるといふ。歳徳神は年の始に祭る神であるが、其際に玄米一俵を俵のまま供えて置いて、之を田植の日の飯米に宛てるのをよいとして居た」

筑前宗像郡の地ノ島では、正月四日の仕事始めの日に、明きの方(あきのかた)に向かって山に入り、焚きものを採って来て之を焚いた。之に由って福を得ると祝したものであらう」

とあります。

新年に恵方の方位にある神社仏閣に参拝し、その年の福徳を祈ることを「恵方参り」「恵方詣で」といいます。

恵方に関する文献に接すると、恵方に向かって巻き寿司をたべる恵方巻丸かぶり寿司)も恵方棚(歳徳棚)、恵方参りあたりからヒントを得て考えられたのかもしれません。

歳徳の清めなるらしけさの雨  芭蕉

旧暦

30年程前に隣国の女性を鑑定した時のことです。


お名前と生年月日を書き留めて鑑定をはじめようとすると「すいません、その生年月日、日本だと違うかもしれません」と。

 

「どういうことですか?」と尋ねると「あの、私の誕生日は日本だと毎年変わるんです。ですからその生年月日は違うかもしれないんです」

 

20代の私は隣国の方の誕生日が日本でいうところの旧暦でお祝いされることを知らなかったのです。

 

グレゴリオ暦を採用している日本の暦(カレンダー)を基準にすると旧暦の正月が毎年違うように旧暦の誕生日も毎年変わります。今の若い方がどうされているのかは知りませんが、その頃鑑定した隣国の方の誕生日はみなさん旧暦の日付でした。

 

誕生日の説明を聞いて萬年暦で対応できたことは幸いでしたが「この生年月日は旧暦なんですか」とは口にしませんでした。彼女の誕生日に対して旧暦という言葉を使うのは失礼にあたると思ったからです。

 

もちろん年が明ければ、旧年中は、と挨拶し、旅館などで新館ができれば、もとからある館を旧館と呼び、姓が変われば元の姓を旧姓というように改暦されれば元の暦を旧暦と呼ぶにすぎません。

 

私の世代では「旧帝大出身」は誇らしげに語られる言葉でしたし、「旧知の仲」「旧交をあたためる」「旧友」は懐かしさを感じる言葉です。

 

「大漢語林・大修館書店」で「旧」の字義を調べると「ふるい、ふるいもの、ふるくさい、昔の、過去の、もと」などの言葉が並びます。かといって「旧暦」をふるいものあつかいしているわけではありません。

 

しかし日本では旧暦は確実に過去のものになっているのでしょう。このブログでも書きましたが旧暦の正月(旧正月)を認識している方はそれほど多くないと思います。

 

グレゴリオ暦を採用している日本では太陰太陽暦の正月を旧正月といいますが中国・韓国・シンガポール・マレーシア・などアジアの各国は太陰太陽暦の正月が正式の正月です。だからこそ太陰太陽暦のお正月が祝日でその前後が年末年始の連休になっているのです。

 

韓国で開かれた平昌オリンピックで羽生結弦選手が復活した2月16日は太陰太陽暦の正月でした。韓国では前日の2月15日から正月の連休に入り2月16日は韓国国内の帰省とオリンピックの観客が重なって交通機関も大変だったようです。

 

太陰太陽暦の正月を祝っているアジアの方々に「旧正月」というと不思議に思われるでしょう。アジアの人々にとって旧暦の正月こそが正月でけして過去の旧(ふる)いものではないからです。

 

梅の華

我が家の玄関をでて北の方角に90メートルばかり歩くと竹林があり、その竹林の手前に誰が植えたか一本の梅の木がすっくと立っています。

 

観賞用ではない梅は弐階建ての家の屋根に比肩するほどの高さがある大きな木です。その梅が旧暦のお正月に白い花を咲かせました。

 

梅は早春をひらくといいますが、毎年この梅の木が白い花を一輪一輪と咲かせると寒い中にも春の訪れを実感するのです。「梅は百花の魁(さきがけ)」というのも頷けます。

 

梅のひらくにつられて春も早くやってくる

道元禅師の言葉。春が来たから梅の花が咲くのではなく、梅の花が咲くから春が訪れてくるというのでしょうか。

 

雪中に一枝の梅華がかおる
いまはいずこも茨ばかりだが
やがては春風が繚乱として吹こう
道元

 

道元禅師が著した「正法眼蔵」には「梅華」の巻があり、道元が日本にもたらした曹洞宗の御詠歌を梅花流といいます。

 

春の功徳はすべて梅のなかにつまっている

これも道元禅師の言葉。禅師と梅は何か深淵なる結びつきがおありなのだろうと思います。

 

その深淵なる世界はわかりませんが道元が開いた永平寺は福井の雪深い山中にあります。

 

私が訪れたのは晩秋でしたがすでに寒く、ここでの冬の修業の厳しさはいかばかりか、凍てつくほどに香りがます梅と永平寺の若き修行僧が重なってみえるような気がしました。

 

雪に耐えて梅花麗し

西郷隆盛が明治5年に作った詩の一節です。

 

先人たちにとって梅は特別な存在なのか禅語に漢詩に和歌に数多く登場します。

 

梅百雪に耐えて清し

 

梅花雪に和し香ばし

 

梅花百福兆 
ばいかひゃくふくにきざす

 

梅花開五福
ばいかごふくをひらく

 

東風ふかば匂ひおこせよ梅の花
あるじなしとて春を忘るな

 

難波津(なにはづ)に
咲くやこの花冬ごもり
今は春べと咲くやこの花

梅が春の訪れを告げ、やがて桜前線が日本列島を北上し春爛漫のときを迎えます。

梅は咲いたか 桜はまだかいな