干支(えと) 甲子(きのえ・ね)

尋常小学校の通知簿の評価は「甲乙丙丁(こうおつへいてい)」だったと母から聞いたことがあります。

 

しかし現代では契約書でみる「甲乙」、あるいは「甲乙つけがたい」という表現以外で日常の生活では「干支(えと)」の「干(え)」、十干を意識したり、用いたりする機会はほんとんどないかと思います。

 

昨日、書きましたように「干支」を聞かれても、辰、午、申、酉、など干支の「支(と)」の十二支のみを答えるのが一般的ではないでしょうか。「干支」を聞かれて甲辰(きのえたつ)丁午(ひのとうま)辛申(かのとさる)壬酉(みずのえとり)などのように「干支(えと)」の両方を答える方は少ないと思います。

 

ただ「戊辰(ぼしん)戦争」「壬申(じんしん)の乱」「辛亥(しんがい)革命」のように出来事がおきた年の「干支」がそのまま名称になっているものを歴史で勉強することで干支を知ることがあります。

 

身近なところでいえば福沢諭吉が明治10年の丁丑(ひのとうし)の年に著した「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。また「甲子園球場」は干支がそのまま球場の名称になっていることで有名です。甲子園球場が完成したのは大正13年(1924年)です。大正13年の干支は「甲子」なのです。

 

干支を球場の名前にしたのは大正13年が「甲子」だったからだと思います。他の干支だったら球場名にはしなかったのではないでしょうか。

 

甲(こう・きのえ)は十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)のはじめ、
子(ね・し)は十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)のはじめ、

 

甲と子が十干十二支のそれぞれはじめの組み合わせだから縁起がいいとして甲子園球場にしたのではないかと勝手に推察しています。


推察するには理由があります。日本の歴史において「甲子」の年は特別だからです。顕著なのは新たな出発を意味する元号を改めることが多くなされた干支が甲子なのです。

 

甲子の年の改元
万寿元年(1024) 元号を改める
応徳元年(1084) 元号を改める
天養元年(1144) 元号を改める
天久元年(1204) 元号を改める
文永元年(1264) 元号を改める
正中元年(1324) 元号を改める
元中元年(1384) 元号を改める
文安元年(1444) 元号を改める
永正元年(1504) 元号を改める

万寿から永正までおよそ500年の間、甲子のたびに元号を改めたのです。この時代、天皇の即位以外に心機一転といいますか災いを改めるためなどの理由で改元をしていました。

 

改元ではありませんが推古12年(604)の甲子の年は聖徳太子が十七条の憲法を作りました。また暦をはじめて用いた年でもあります。斉明3年(664)の甲子には冠位二十六階を定めました。

 

神亀元年(724)の甲子は聖武天皇の即位、延暦3年(784)の甲子は長岡京に遷都しました。これは偶然ではありません。甲子の干支を意識してなされたことなのです。