富士山 十国峠と天下茶屋

十国峠からの富士山は秀逸でした。

伊豆・駿河遠江・甲斐・信濃・相模・武蔵・上総・下総・安房の十の国が見渡せることから十国峠の名がついただけあってその展望は天晴(あっぱれ)です。

前日は熱海に宿をとっていました。朝起きると眼前には青い海が広がっていて爽やかな目覚めとなりました。宿についたときはすでに日が落ちていましたので、このロケーションは御褒美でした。

朝食の時、知人から「十国峠に行きませんか」と誘われ、夜までに都内に入ればよかったので快諾しました。「この天気でしたら富士がきれいにみえますよ」という魅力的な言葉が快諾の一番の理由です。

初めての十国峠からの富士山は雲ひとつない青天の恩恵も手伝って富士山の思い出ベスト3に入っています。朝日に輝く海、青天の富士、これを僥倖というのだろうと思います。

それから数年後、今度は山梨県石和温泉からの流れでした。朝、「天下茶屋に行ったことありますか」「今日の天気でしたら富士が最高ですよ」その日も夜に都内に入ればよかったので知人の誘いに甘えて彼の車に同乗しました。

御坂峠の天下茶屋に到着し河口湖と富士山の絶景を見て思ったのは不思議なことに母のことでした。自分でも今なぜ母のことをと驚きましたが、母にこの景色を見せてあげたいという思いが込み上げてきたのです。人の感情というのはわからないものです。

私の感情はさておき十国峠からの展望とは色合いが異なる富士にしばらく見入っていましたが茶屋ですので店の中に足を進めました。すると太宰治が逗留していた茶屋だと知りました。

谷中・根津・千駄木界隈はなんとなく文人にゆかりがあるのかなと思っていましたが、絶景とはいえこのような山の上に太宰が逗留していたのかと驚きました。

「富獄百景」をここで書いた、とあります。不明にも読んだことがない作品でした。後日、開いてみると興味深い文に出会いました。

“私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立ってゐたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合ふ“

ああ、そういうことだったのか、と全く別のことで得心を得ました。

野村克也さんのことです。むかし、野村克也さんが「花の中にはヒマワリもあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草だってある。王や長嶋はヒマワリ。それに比べれば、私なんかは日本海の海辺に咲く月見草だ」と言ったことを思い出したのです。

今でこそプロ野球パシフィックリーグもあでやかになりましたが野村さの現役時代は寂しいものでした。

野村さん自身、日本初の三冠王はじめ眩いばかりの実績があるにもかかわらず、それに見合う注目はされませんでした。そんな現状を卑下して太陽に縁のない一夜花の月見草にたとえたのだと安直にも思っていました。

それが太宰治の“富士には、月見草がよく似合ふ”です。野村さんらしい自負心の表し方だなと感じ入りました。

それにしても太宰のこの文章。
“三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立ってゐたあの月見草は、よかった。”
この文章の“金剛力草とでも言ひたいくらゐ”がひっかかります。

金剛力とは金剛力士のような大力、非常に強大な力と辞書にのっています。金剛力士について大辞林には「金剛杵(しょ)をとって仏法を守護する天神。忿怒(ふんぬ)の相をなす」とあります。

金剛力士像といえば奈良・東大寺南大門の立像でしょう。仁王像とも言われますがカッと両の目を見開いてにらみつけるその迫力に幼い子でしたら泣き出すかもしれません。

何しろ阿形像・吽形像の二体のでっかい金剛力士像のにらみですから大人でも恐く守護神の役割は十分すぎます。良からぬ思いを抱いていてはこの門を通りぬけるのは憚られるでしょう。

大迫力の金剛力士と宵待ち草とも称され儚さも感じられる月見草は対極にあるような気がします。なぜ太宰は金剛力草と言いたくなったのか、その太宰の心理に触れるには今一度、天下茶屋に行くしかないのかもしれません。

月見草は今も富士のどこかで見ることができるのでしょうか。